旅行日記 会津若松
久しぶりに実家に帰ってきました。母も腹部大動脈瘤から奇跡の生還中です。仕事柄帰る機会も限られていますが、少しでも親孝行したいと。。。。
今回は「飯盛山」探索が中心です。鶴ヶ城は混みすぎていて駐車を断念。とは言っても、高校3年間、鶴ヶ城の本丸をショートカットして登校していたのでいいかな(笑)。いまさらですね。瓦が赤に変わった程度でしょう(笑)
思い
のほか速くついたので「飯盛山」探索です。何年ぶりでしょうか。う~ん、10年ぶりくらいかな。周りのお店など変わっていません。まずは、下からの景色。階段が。。。エスカレーターが有料でありますが、会津男子は歩いて登ります
余談:夜中ですが、いきなりアキレス腱が吊ってしまいまして大変なことになりました。会津男子も年には勝てません。慣れないことをすると大変です。やはり「チャリ通勤か?」。。。。
階段のまっしぐらは、、じつは観光客確定!地元民は「白虎隊記念館」から「さざえ堂」方面に登ります。なぜならば、階段の数が圧倒的に少ないからです(笑)
途中、「白虎隊記念館」には入らずに入り口脇の「水戸藩諸生党鎮魂碑」
戊辰戦争の明治元年 (一,八六八年) 八月二十三日雨の朝、土佐藩兵を主力とする西軍が怒涛の如く鶴ヶ城追手紋に迫った時、北越戦線から会津に戻っていた諸生党などが駆けつけ危機を救った。 その後城内の各門の防禦と城外各地で会津藩と共に奮戦し感謝された。
時代の流れに逆らって信念を貫ぬき、消え去った人達に光をあてたい。
仰天会・栗栖平造 撰
続いて「戸の口堰洞穴」
白虎隊士中二番隊は戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されたが、戦い利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中 隊士20名が通過した洞穴。猪苗代湖から20Km位あるでしょうか。。この洞窟を通ってくるなんて今では想像できませんね。それほど追い込まれていたのでしょう。因みに、今でも止まることなく湖水が流れています。
次は「さざえ堂」
ここは小さい頃の遊び場でしたね(笑)。何が面白いって、、登りと下りの道が別々なんです。いまいち想像できませんかね!? 「鬼ごっこなのに追いかけない」という頭脳戦なんです(笑)。一度入ると意味が解ります。世界唯一の造りだそうです。あ、、そういえば、昔、火曜サスペンスドラマの舞台にもなりました(笑)下の写真はパノラマです。中央の柱に抜け道があるのが見えますか?ここで「登り」「下り」が切り替えられるんです。
さざえ堂から少しだけ階段を登ると、、もう終点。
「会津藩殉難烈婦の碑」
この碑は、会津戊辰戦役で自刃 又は戦死した婦女子二百余名の霊を弔うため 昭和3年4月 旧藩士山川健次郎氏 (男爵、理学博士、帝大総長) 等の篤志家によって建てられた顕彰碑である。うぉ、、あの山川健次郎氏です。会津の人で知らない人っているのでしょうか。。そのくらい有名です。
「日本人として初の物理学教授」「東京大学初の理学博士号を授与」「48歳で東京帝国大学総長」「九州帝国大学の初代総長」「京都帝国大学の総長」、、、凄い、、、あッ「はじめてカレーライスを食べた日本人」らしいです。これは知りませんでした(笑)。
「白虎隊士の墓」
戦いが終わっても西軍は、戦死者の埋葬を禁止した。幼き隊士の屍も例外ではなく、カラスや野犬に食い荒らされた。
見るに見かねて埋葬した肝煎/吉田伊惣次 (治) は捕えられ入牢させられ、遺骸も掘り起こされ、元の場所に投げ捨てられた。明治14(1881)年、やっと飯盛山上に一基の石碑が建立。しかし、文字を刻むことは許されなかった。明治23(1890)年、初めて19隊士の各々の墓碑が建立。大正15(1926)年に再建され、修復されつつ現在に至る。
一人ひとりのお墓にお参りさせて頂きました。
追伸:春と秋、このお墓の前で剣舞が奉納されます。この剣舞は、わが母校「会津高校」の生徒が行うのが慣わしです(今は不明ですが)。こちらがその風景です。今から○○年前、ここで剣舞を披露したんですね、、
すぐ隣には「松平容保公弔歌の碑」
松平容保と言えば歴史の教科書にも載っていますね。。そう、「京都守護職」です。戊辰戦役当時自刃した白虎隊の殉難忠節に対し 九代松平藩主松平容保公が次の弔歌を詠まれたのを 現河東町八田野の篤志家八田宗吉氏が この碑に刻み建てたものである。
「幾人の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽しとぞ思う」源 容保
歴史の裏側
幕末、孝明天皇は、容保公の人柄、忠節心にいたく感謝され厚い信頼を賜り、褒め称えたご辰韓 (書簡と和歌) をいただいている。慶応4(1868)年1月3日、戊辰の役、ぼっ発。慶応4(1686)年2月、恭順の意を表し隠居、藩主の地位を降りる。同年9月22日、降伏勧告に応じて、開城。戦後処理において西軍のやり方は、空前絶後の極悪非道なものだった。孝明天皇から拝領したご辰韓は、小さな竹筒に入れ首から下げ、死ぬまで手放すことはなかった。容保公こそ忠臣であることを示すものであるため、明治政府にとっては抹殺しなければないらいものとして恐れたという。ご宸翰の存在を知り、内容を知って驚愕した山縣有朋は、密かに現在の10数億円で買いたいと申し入れたが、黙殺される。その後の明治政府の対応は一変し、気を遣うようになる。
昭和3(1928)年、松平勢津子 (容保公の6男/恒雄の長女) が、秩父宮雍仁親王 (大正天皇の第2皇子) に嫁ぎ、汚名は完全に晴れた。私くらいの年の会津人なら誰でも知っていることです。
悲惨な会津の末路、、そんな会津に義を持って従ったのが「郡上藩凌霜隊」
郡上藩凌霜隊は、会津藩と運命を共にした。戦後は、故郷すら彼らに冷たかった。
会津藩に対する仕打ちと同じ位の仕打ちを受けた郡上藩凌霜隊。会津は凌霜隊からの恩義を忘れては駄目だ。
「道ハ一筋ナリ」
「道ハ一筋ナリ」とは、速水小三郎の日記の一節による。
「抑道ハ一筋ナリ 君ニ忠ナルハ親ニ孝ナリ 皇国ノ御為ナリ 真ノ勤王ナリ 是ニ反セルハ不忠ナリ 不義ナリ 不孝也 国賊也 禽獣也 予子孫タル者熱ク是理ヲ弁知スベキ也」
敗者にも正義があることを忘れてはいけない。
飯沼貞雄翁の墓
:幼名(飯沼貞吉)
自刃した白虎隊で唯一の蘇生者で大正時代まで生き抜きました。この方により、自刃の様子が後世に伝わったのです。
後年、仙台で暮らしていたらしいです。
最後に
かなり偏った歴史観かもしれませんが、過去の歴史を自分なりに解釈することは大切なことです。会津が「官軍だった」とは言いません。しかし「賊軍だった」と言われると心が痛みます。歴史を勉強することは「善悪」をはっきりさせることが目的ではなく、過去を振り返ることで自分たちの未来を思い描くことが目的だと思います。皆さんはいかがでしょうか。今、私は群馬県伊勢崎市に住んでいます。伊勢崎にも古い歴史があります。それを理解することで自分がもっと成長できる気がしてなりません。
帰り道
国道121号を通りながらラーメンを食べたくなった。前にお邪魔した「マルキ食堂」は準備中。すごく残念だった(泣)。。暫く進むと「牛乳屋」は超満員。「うぇんで」は閑古鳥、、この時期に閑古鳥では逆に怖くて入れません。さらに進んで「ばんだいや」、、あっ、、営業中、、しかも今の時間は空いてる。懐かしい味、有難うございました。
※このお店の主人、母の知り合いの方です。多分5~6年ぶりに行ったのに私を覚えていました。「あれっ、、○○の息子さんじゃね~か?」。。。超感動しました。また行きますね!
のほか速くついたので「飯盛山」探索です。何年ぶりでしょうか。う~ん、10年ぶりくらいかな。周りのお店など変わっていません。まずは、下からの景色。階段が。。。エスカレーターが有料でありますが、会津男子は歩いて登ります




「白虎隊士の墓」
すぐ隣には「松平容保公弔歌の碑」
:幼名(飯沼貞吉)

